「これ、本当は桜の花から採った香りじゃないのよ」
「へぇ、そうなんだ」
聞香が得意だという、黒蓉が選んでくれた香を焚き染めた守り袋から漂う香りは、本物の桜に限りなく近いと思うのだが。
少なくとも、自分の感覚では。
「桜の香りはね、お香に出来ないの。だからわたし、嵐さんの印象を香りにしたら『桜』だなって、思ったんですよ」
「俺が?」
気品のある、しかしどこか包み込むような穏やかな笑顔を浮かべる黒蓉の方が、『桜』に似つかわしいのではないか――と思う。
「花姿ではなくて――雰囲気、とも違うのですけれど。風に乗って、不意に訪れて。ほんの僅か、姿を見せてくれて。ほんの一瞬なのに、強く強く、心に残る。惹かれる――あら困った。やっぱり、言葉にすると上手く言い表せません……おわかりになります?」
「そうだなあ……うん。言葉にすると、失われちゃうもの、ってあるよねー。って……俺、黒蓉さんから見て、『イイ男』に見えてるってことなのかな? だったら、嬉しいんだけど」
肌守りを身につけると、黒蓉の心と一緒に居られるような気がして、嬉しい。
「あのさー。黒蓉さん」
「なんでしょう?」
今回の縁談で、子を授けてもらうのは嵐のみだ。
見合いの釣書を渡されたとき――会った事も無い女性達を品定めするのは気が引けて。
容姿ではなく純粋に、素質の数値だけを見て『次代により強い力を渡せるように』と自分の能力を秤りにかけて選んだ――ただ、それだけのはず。……だったのに。
(あー俺、『年貢の納め時』ってヤツかも)
嵐の実家は、初代の方針により、町の復興は武具よりも娯楽に比重が傾いていた。
養子縁組にあたって時間を遡行したことで、花街へ遊びに行った記憶は、自分ではなく別の誰かの記憶を垣間見るかのように朧になってはいる――けれど。
どんなに美しく着飾った太夫よりも、今目の前にいる黒蓉が、一番綺麗だと思う。
ただ彼女が、ここに居るというだけで、こんなにも景色が違って見える。
(空ってこんなに青かったっけ。月ってこんなに、柔らかく輝いてたっけ? 街の人たちって、こんな風に楽しそうに、笑ってたっけ)
――生まれてきて、良かった。
時折見る、悲しい運命と共に生きる、異国の人々の夢も――黒蓉と会ってからは不思議と、見ることが無くなった。
炎と共に、異国の一族に迎えられて。異国から来た、同じ女神を母に持つ兄弟を得てからは――異国の夢は一度か二度、見たきりなのだが。
黒蓉の、水の加護を受けた淡い色の髪がさぁっと、風に揺れる。
彼女は春の泉のように穏やかに微笑んで、じっと自分の言葉の続きを待ってくれていた。
けれど、不思議と居心地の悪さは感じなかった。
会話の間に訪れる、沈黙でさえいとおしい。
「なんつーか、こういう安っぽい台詞は好きじゃないんだけどね……」
ほぼ無意識に、髪をくしゃくしゃとかき回すと、自分の髪飾りに手が触れた。
りん……と、澄んだ鈴の音が耳元に響く。
――俺、きっと黒蓉さんに逢うために生まれてきたんじゃないかな。
2013.09.09 初出
頂いた御題は「私(水月)から見た黒蓉さんというか、設定とか」。なのですが……私から見た、というより拙宅の子から見た黒蓉さんで、設定というよりコバナシになってしまいましたが^^;リトさん、お嬢様をお貸しくださってありがとうございます!