葬送の餞

ぽたり、ぽたり。
ひとしずく、またひとしずく。頬を伝い落ちる濡れた感触がある。

「なんで、雨?」

空はこんなにも晴れているのに。

「ナギ君、これ使いなよ」
日柳が振り返ると、綺麗にたたまれた手巾を差し出す常陸の姿があった。

それとも、顔洗ってくる? 結構すごいことになってるけど――そう指摘されて初めて、水滴の出どころは自分なのだと判った。
「な、泣いてなんか! 藍兄の事なんか、大っ嫌いやのに」
「ナギ君、いっつもそれ言ってるよね」

弔問客の応対は、藍晶の次に当主となった時雨が務めている。
幼い姿の時雨が涙を堪えて客の出迎えをする姿はなかなかに胸を打つらしく、貰い泣きをしている者も少なからず居るようだ。
直接の血縁者――実弟である常盤は柩の傍に控えているため、ひとり庭に出た日柳は、何をするでもなく、ただぼうっと空を眺めていた。

「藍兄、殺しても死なへんようなお人やったやん? なんかまだ実感ないわー」
「その調子なら、大丈夫そうだね?」

自分の藍晶に対する評価が、他のものより辛辣なのは、常陸の反応を見ればなんとなく察することはできる。
幼い時雨や、実弟の常盤が藍晶を慕うのは、可愛がられているのだから当然だということも理解できている。
だから二人の前で藍晶を必要以上に貶めるようなことは言わない。その程度の分別は、日柳にだってちゃんとあるのだ。

屋敷の中はイツ花と自分たちが見ているから、と告げて手巾をしっかり手渡すと、常陸は屋敷の中へと戻っていった。

*************

せっかく整えた髪をくしゃくしゃと撫でまわされて、乱されてしまうのが嫌だった。

――ああゴメンゴメン。いやーナギくんの頭って丁度良い位置にあるし? 良いじゃん別に。減るモンじゃないし。

もう子供ではないのだから止めるようにと、何度か言ったことはある。
だけど、藍晶が日柳の髪を撫で回す悪癖はなかなか直らなかった。
毎回毎回、軽く笑って流されるのも癪に障った。

――ごめんって。じゃ、結い直してあげようか?
――結構どす。そんくらい、自分で出来ます。
――あはは、そっかー。

要らないと告げると、藍晶は少し困ったように笑って、また「ごめん」と繰り返すのだ。
そんな顔をされたら、まるでこちらが苛めている様ではないか。
いたたまれなくなって、自分が立ち去るまでが毎回のお決まりのようになっているところまで、腹が立つ。
自分の髪は癖があるので、結い上げるにはこれでなかなか骨が折れるのだ。
けれど、乱れたままの髪で人前に出るようなみっともない真似はしたくないので、日柳は都度、乱れた髪をあとでこっそり結い直していた。
そんな姿を見た常盤や時雨から、不思議そうに問われたことがある。

――日柳さんも、兄様に結っていただけばよいのに。兄様は髪を梳くのがとても、お上手なのですよ?
――そうだねー。らんしょーさま、ボクの髪もとかしてくれるよ? ナギ兄ちゃんも、らんしょーさまになおしてもらえば?

藍晶の弟である常盤は、毎朝、譲られた櫛を手に藍晶の居室に通うのが日課になっていた。
寝乱れたままの髪が、藍晶の居室を出る頃には艶を得て、肩から腰へと流れ落ちるように整えられている。
髪を整えるのが巧いのは、常盤や時雨の髪を見ればわかる。
わかるが、自分は藍晶に髪を整えて欲しいのではない。ただ単に、乱すのをやめてくれさえすればそれでよいのだ。
そして、髪に触れる行為自体もおそらくは癖のようなもので、悪意など本当にないのだろう。
時雨や常盤のような癖のない髪質であれば、多少頭を撫でられたところで、大きく乱れることは無いのだろうが。

あれはいつのことだっただろうか。
とても暑い日だったのを覚えている。
例によって日柳の髪をくしゃくしゃと藍晶が撫でまわしたときに、口をついて出た何気ないひとこと。

「暑いし、もういっそ、お父ちゃんみたいに剃ってしまおか」
「悪かった。そこまで嫌だったんなら、もうしない」
「藍兄、何なん? そんな顔されたらこっちが悪いみたいやん! ああもう、切りも剃りもせえへんし! 辛気臭い顔すんの、やめとくれやす」

(なんで、お別れの日に思い出すのがこの顔なんやろ)

ただ単純に、暑いからついでに切ってしまおうか程度の、軽い気持ちで出た言葉だったのに。
――いつもと違っていたのは、その日以降、藍晶が日柳の髪に触れることが本当にぴたりとなくなったこと。
髪を乱されることがなくなり、結い直す手間はかからなくなったが、藍晶に対する苛々した感情はかえって増したような気がする。

何時だったか、酒の臭いをまとわりつかせながら玄関をくぐった藍晶に、日柳は地獄雨をお見舞いしたことがある。
日柳の朝の鍛錬と偶々、藍晶の帰宅が重なったため、弓を持っていたのだ。

――何で、避けへんのどす? 悪いことしてるて、自覚でもあるん?
――だってナギくん、今の当てる気が無かっただろ?

避けたら、当たるから逆に危ない――ぴったりと一人分、人が立てる程度ギリギリの幅で地面に並んで縫い付けられた矢を跨ぎ、軽く笑いながら告げる藍晶に、自分は何と返したのだったか。

脱いだ着物は脱ぎっぱなしにするし、街に出れば毎回違う芸妓を連れて歩いているし。
似姿を見て「この女神と!」と決めた自分から見たら、ああも頻繁に違う女人と親しげに歩いている姿は、「ありえない」のひとことに尽きる。
交神を断り続けているのは、てっきりどこかに決めた相手でも居るのかと思っていたのに。
当主になった以上は多少落ち着くのでは? ……と、思ったのも束の間。藍晶が三日と開けず花街や賭場に出入りするのは変わらなかった。
子供が出入りして良いような場所ではないため、幼い時雨や常盤が興味本位で近づかないよう、行き先をごまかすのに何度苦労したことか。
もちろん、当主として尊敬できる部分もあるにはあったのだが……日柳の記憶の中の藍晶は、欠点の方が印象深い。
表情はどちらかというと、ヘラヘラ笑っている顔を見る機会の方が圧倒的に多かったはずなのに。

「なんで、思い出すのがあの顔なんやろな」

日柳の足元にまた一粒、雫が落ちて地面に染みをつくる。

「藍兄なんか、大ッ嫌いや」

せめて雨でも降ってくれればいいのに――藍晶を送る日の空は、雲一つなく青く晴れ渡っていた。

<了>

2020.09.16

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