雨滲む百合

「ちょ、藍兄! 髪さわらんといて! くしゃくしゃんなってまうやん!」
「ああゴメンゴメン。いやーナギくんの頭って、丁度良い位置にあるし?」

――またか。
庭の方から聞こえる声に、はぁ……と思わずため息が漏れる。
悪気が無いのは知っているのだが、如何せん、撫でられている対象の彼は、自分の癖のある髪をそれはもう、毎日苦心してあの形に結い上げているのだ。
顔を合わせるたびに乱されているのだから、腹を立てるのも仕方のないことだろう。

わかっていて揶揄っているのか、あるいは本当に悪いと思って言っているのか――このあと藍晶が結い直すことを提案し、子供扱いするなと怒った日柳が立ち去るまでがお決まりのような流れになっていた。

(藍兄も、ナギ君が毎回怒るの、見ててわからないわけじゃないだろうに)

傍目に見ている常陸からすれば、日柳が頑なに、藍晶からの申し出を断るのも正直よくわからないが。
自分で結い直すのが面倒であるのなら、整えて貰えばよいだろうに。
傍目に見て、誰が髪を結ったのかなどわかりはしないだろう。

実際、腰まで届く長髪の常盤や、来訪直後からあまり肉体の成長が見られない時雨などは、今でも毎朝藍晶に髪を整えて貰っている。
もっとも、実弟の常盤や見た目が幼子の時雨の場合、年長者に甘えやすいということもあるのだろうが。
日柳の場合、元服を迎え、そろそろ交神の儀に臨む打診があってもおかしくない青年だ。
子供のころと違い、頭を撫でられても嬉しくは無いだろう。

「ナギ君、鏡使う?」

庭から戻ってきた日柳に対し、常陸は鏡台の掛布を外しながら声をかける。

「おおきに」

それだけ言って、日柳は頭頂部近くで結わえた髪紐をほどいた。
ふわり、と水浅葱の髪が広がる。
常陸のものとも、前当主・氷雨の髪ともわずかに色合いの違う日柳の髪。
癖があり、コシの強い髪はどちらかというと藍晶の髪質が一番近いような気がする。
言うと日柳の気に障るだろうと予測はついているので、指摘しないが。

「櫛」
(あーこれ……やっぱ怒ってるなー)

鏡の方に顔を向けたまま、単語だけ言うと日柳は掌を開いて手だけを常陸の方に向ける。
苦笑しながら、常陸は箪笥の抽斗から櫛をとって手渡した。

おさまりの悪い癖毛を梳かしながら纏めている日柳には、声をかけない方がよさそうだ。
以前、藍晶とのやり取りを知らず、良かれと思って声をかけた常陸に、日柳は露骨に嫌そうな顔をしながらしぶしぶ櫛を寄越したことがある。
日柳はそもそも、髪を自分以外に触れられるのがあまり好きではないのかもしれない。
けれど、身嗜みを気にする彼にとって、乱れたままの髪をそのままにすることの方が耐えがたいことなのだろう。

日柳は水の加護が強く表れた髪や目の色、一見穏やかそうに響く京ことばがあいまって、キツイ印象は与えにくい。
だが、いい加減付き合いも長くなってきた常陸は知っている。
言葉遣いこそ訛のおかげで柔らかく聞こえはするが、日柳は短気で頭に血が上りやすい。
良くも悪くも、傍から見ていて「わかりやすい」のだ。
髪以外の部分でも、よく藍晶にからかわれている姿を目にするような気がする。

手持ち無沙汰で待つ常陸の視界の隅に、柱の陰から手招きする影が見える。
声を立てず、自分の口の前に人差し指を立てて制するのは、先ほど庭先で日柳と居た藍晶だった。

藍晶は懐から二枚の紙切れを取り出し、常陸に渡す。
先ほど渡しそびれたから、と渡されたのは甘味処の招待券だった。

「常陸くんも甘いの好きだったよね?」
「いや、藍兄……これホントはナギ君宛でしょ。自分で渡せばいいじゃないか」
「ナギくんが素直に喜んでくれると思う? さっきの今だぜ?」

肩をすくめる藍晶に対し、まぁそりゃそうだけど、としか返せないのが気まずい。
髪結いに集中しきっている日柳が気づく気配はまだないが、こうして問答を続けるのもあまり得策とは思えず、常陸は招待券を受け取った。
どのみち、今日は日柳とともに街へ出かける予定もあったことだし。

「え、ちょっと待って? ナギ君それ昨日もらったばっかの茶碗だよね?」

古道具屋で、桐箱から取り出した品を目にして常陸は思わず大声を上げる。

「ええやん別に。後生大事に置いといたかて、なんか役に立つわけやあれへんし。それに『当主様』言うても、これくれたん藍兄やしな」
(……この場合の「藍兄だし」って、ナギ君としては『売って換金しろって意味で寄越した』って思ってるってことで良いのかな)

まさか、「気に入らない相手からの贈り物だから手元に置いておきたくない」なんて、不穏な理由ではないと思いたい。
この手の贈り物は、売れば確かにまとまった金子が手に入る。
しかし、たいていの場合、大切に自室の床の間などに飾っている者の方が多かったはずだが……まさかの「甘味欲しさに、それも即座に売り飛ばす」という発想に、常陸は頭を抱えたくなった。

「……ナギ君って、ほんっと紅月さんの甘味が好きだよね」
「せやな。あてが時雨坊くらいちっさい頃に、紅月さんの練り切り貰ろて。そんとき、『ああ街にはこんな綺麗ィもんがあるんや』ってびっくりして。ホントは、街の人が当主様にて――ああ、藍兄ちゃうで。八代さんの方な。くれはってんけど」

自分はこんなに食べられないから――箱に入っていた中で一つだけ手を付けた状態で譲られた、色とりどりの季節の花や動物を象った菓子。
訓練の間に体の基礎をつくるためにと考えられた食事にくらべて、こんなにも鮮やかで、繊細なものがあるのかと驚き、口に入れたときの心踊る感覚は一生忘れることはないと、日柳は力説する。
紅月本舗の菓子が、日柳の食に対する認識を変えたのだと。

鷹羽家には、初代の血縁者から続く本家と、鷹羽初代が養女に迎えた七瀬を祖とする分家の家系が存在している。
九代目当主に就任した藍晶は、本来なら当主を継ぐことはない分家の者だ。
もっとも、藍晶が当主に就任したのは、八代目の逝去前の打診を本家家系で最年長だった日柳が断ったことが原因なのだが。

道具屋を出て、日柳と常陸は甘味屋・紅月本舗へと向かう。
街にはたまによくわからない像が建ったり、とりやめられていた祭りが復活したり……徐々に活気が戻ってきつつあるようだ。
武器や防具などの実用一辺倒ではなく、甘味処のような娯楽を扱う店が建つようになったのも、復興の証だとイツ花が教えてくれた。

夕刻にあまり近づきすぎると、夕餉が入らなくなる。
刻限も昼下がりということもあり、甘味処もさほど込み合わない時間になっていた。
大通りを通り抜け、茶屋のある辺りへ向かい歩いていると、唐突に日柳の足が止まる。

日柳が見据えている視線の先にあったのは――周囲の人々よりも頭一つ分以上背の高い、黒緑の髪。そして隣には、白粉を粧し紅をさし、きらびやかな簪を挿した娘がひとり。
髪の結い方から見て、町娘ではないことは明らかだ。
常陸は思わず、天を仰ぐ。

(あちゃー……藍兄、何でまた、こんな状況で鉢合わせるかな)

娘の方は、並んで歩く藍晶にしなだれかかるように密着している。
常陸と日柳に気づいたのか、藍晶はこちらに顔を向けた。
そのまま、芸奴の娘と並んで近づいてくる。

「丁度良いや。『俺の夕飯、今晩は要らない』って、イツ花ちゃんに伝えといて」
「……お仕事放っぽって、お茶屋遊びどすか?」
「えー、信用がないなァ。お役所に出さなきゃいけない書類は終わってるし? 蔵の整理も終わったし? 街の人と仲良くするのも、大事なことだろ?」

人目を気にしてなのか、日柳の表情が笑顔なのが逆に怖い。

「ほー。ものは言いようどすな。街の皆さんと仲良う、どすか。先代はんを訪ねて来はる方には今でもたまにお会いしますけど、先代はんがお座敷の常連さんやった――なんて話は、ついぞ聞いたことがあらしまへんな」
「……は」

一瞬だけ、藍晶がぱちくりと目を瞬かせる。流石にこれは怒るのでは、とはらはらし始めた常陸の気苦労を知ってか知らずか、藍晶は破顔した。

「ぶはっ、そりゃそうだろ――俺と氷雨、別人だもん」

さらに何か言いたげに、日柳が口を開こうとしたところで、連れの娘が藍晶の袖を引く。

「若様、まだなんだぇ?」
「ああ、ごめんね?」

じゃ、伝言よろしくと言いつつ、娘の肩を抱くようにしながら、藍晶は背を向ける。

「……この間とは、違うお人どすな」
「ちょ、ナギ君それ言っちゃう? てか、聞こえるよ!」

呼び止めるつもりで言ったわけではなく、本当に、ただ思ったことが口から洩れただけなのだとはわかるが。
流石に失礼なのでは……と焦る常陸と、振り返った娘の視線が合う。
けれど、娘は、艶やかな笑みを持って返した。

「ふふ、正直な坊ちゃん。そういうことは言いんせんのが、お作法でありんす。昔から言いんしょう? 『言わぬが花』と。思ったことを全部が全部、口に出すのが良いとは、限りんせん。初心な坊ちゃんには、わっちのお店はまだ早い。……そっちの坊ちゃんと一緒に、お帰りなんし」
「さよですか」

それだけ言って、日柳は二人の向う方向と、反対側――家へと変える方向に向きを変えた。

「何しとん? 帰りまひょ」

日柳の温度があまりに平常すぎて拍子抜けしたが、こんな往来のど真ん中で喧嘩になるよりはマシかもしれない。常陸は自分にそう言い聞かせ、日柳の後を追って家路を急ぐのだった。

(――なんか今日は……すっごく、疲れたな)

夕餉の後は、即座に夢の世界に旅立てそうだ。

帰宅してからの軽めの鍛錬と、沐浴を終えた常陸は、自室の畳の上にごろんと仰向けになり、そのまま手足を放り出していた。
見慣れた天井が視界に入る。

(――そういえば、ナギ君って昔からあんなだったっけ?)

思い返してみれば、元服前に瓦版屋が訪ねてきた辺りの頃は、ここまで藍晶に対するあたりがきつくはなかったように思う。
むしろ、比較的他愛ない悪戯を二人揃ってやらかして、イツ花にばれて叱られる姿の方をよく見ていたような。
討伐の時に弓を向けるほど険悪になっているわけではないので、常陸が気に病むほど深刻な溝が生まれているわけではないだろう……と、思いたい。
それとも、日柳が事あるごとに藍晶に噛みついているように見えるのは、自分の思い違いなのだろうか。

「……まさか、ナギ君に訊くわけにもいかないしなぁ」

********

「常陸くんが相談? 珍しいな。何?」

あふ……と、欠伸を隠そうともせず、藍晶は応える。
常盤や時雨が髪を整えに来る刻限は避けたつもりなのだが。
例によってまた、前日が遅かったのか、それとも朝になってから帰ってきたところなのか。数日かかってようやく捕まえた藍晶は、とても眠そうにしていた。
流石に本人が居るところでははばかられて、日柳の外出を見計らっていたら、此方は此方で間が悪かったとしか言いようがない。
先日のように、遊び歩いている姿も見るには見るが、これでも当主である。
藍晶の居室にある文机には、書類や巻物、どこから届いたのか判らないような文の束が積み重ねられていた。

悪いけど、このへん――と、藍晶が紙束の一角を指しながら言う。

「急ぎで片しちゃわないといけないやつなんだよねー。書き損じとかやっちゃうと、後が余計ややこしいからさ。ひと眠りしてからやっつけようと思ってたんだけど、どうすっかなー」
「え、今じゃなくても。そこまで急ぐわけじゃないから」

このままだと、眠いと言いつつ常陸の話に時間をとると言い出しそうだ。
腐っても鯛、当主は当主だ。無理を通して倒れられても困る。

「じゃ、明日の晩とかどうよ」
「いいけど、藍兄それで大丈夫なの?」
「大丈夫大丈夫。じゃ、常陸くん。俺これからひと眠りするから、遅くても午一刻になったら起こして」

言うが早いか、藍晶は座布団を数枚、一列に並べると自分の腕を枕代わりに、羽織を掛布代わりに横になった。
すうすうと寝息が聞こえる。

「え、ちょ、寝つき早!」
(……ってか、藍兄って、いっつもこんな感じで仮眠とってるのかな)

遊び歩いての夜更かしが原因で寝ていないのであれば、自業自得だと思わなくは無いが。
先日街で顔を合わせたときに「役所宛の書類は終わらせた」と言っていたような気がするが、また別の書類仕事なのだろうか。
仮眠をとる藍晶を起さないよう、常陸は足音を立てないようにそろりと当主の間を出ると、そっと襖を閉めた。

廊下で常盤とすれ違ったため、藍晶が今は眠っていることを伝えておく。

「え? 兄様眠ってらっしゃるんですか――そうですか、兄様もお休みになることがあったんですね」

不思議そうに首を傾げる姿に、常陸は内心驚く。

「そりゃ、藍兄だって人の子なんだからさ。疲れもするし、眠るときは眠るよ」
「――そう、ですよね……言われてみれば当たり前のことなのですけど……毎朝常盤が櫛を持ってお伺いするときは、兄様はすでに身支度を終えられたあとでしたし。討伐の時も、兄様がお休みになられているお姿を見たことは無かったものですから」

討伐時の不夜番は、どちらかというと年長者が務めることが多かったため、常盤は交代を務めたことがまだないのだろう。
暫く経って、頼まれた通りに起こすと、軽く伸びをしてから藍晶は文机に向かった。

「ありがと。あとは俺、適当にやるから」
「大変そうなら、手伝おうか?」
「うーん……気持ちだけ、貰っとくよ。これ、筆跡が複数人になっちゃうと駄目なやつなんだよね」

藍晶は目線を書類に向けたまま、声だけ常陸の方に返す。

(なんだかなぁ。常盤君に見せてる顔も、こういう顔も、こないだ女の人と歩いてた時の顔も。全部、藍兄なんだよなー…)

花街を歩く軽薄な若様の顔と、仕事をこなす当主の顔が無理なく混在しているのは、二面性というよりは藍晶の性格の幅なのだろうと、常陸は解釈している。ゆえに、反感を抱くことはしない。
反感を抱くことはしないが、当主としての顔が垣間見えて驚いた自分がいるのは事実だ。
どちらかというと常陸は、藍晶に対して反感を抱かないというよりは、「嫌うほど知らない」のが正しいのかもしれない。
しかし手伝いができないのであれば、とどまってもかえって邪魔になるかもしれない――常陸は軽く会釈だけして、当主の間を辞した。

そして翌日。
夕餉のあとに、イツ花を通じて常陸は当主の間に呼ばれて藍晶と対面していた。
だが悪いことに、襖を隔てた向こうに誰か人の気配がする。

「――ここじゃ、言いにくい? じゃ、場所変えよっか」

ちらちらと襖の方を気にする常陸を気遣い、小声で藍晶が切り出す。

「え? 場所変えるって、どういう」
「ふっふー。お兄さんが、イイところに連れてってあげよー!」

言うが早いか、藍晶は立ち上がりおもむろに襖を開いた。
すぱん、と勢いよく開けられた襖の向こうに、目を見開いたまま固まった日柳の姿があった。

「ああ、ナギくん? 俺これから常陸くんと飲みに行くけど、一緒に来る?」
「結構どす!」

心配して損した、と言いながら日柳はぷいと顔をそむける。

「えーせっかくだし? ナギくんこないだ元服でしょ? 美味しいお酒出してくれるお店なんだけどなー」
「お酒はあんま好かんのどす。そういうことなら、二人で行かはったらよろしいやん」
「だってさ。行こっか、常陸くん」

玄関までは見送りに来た日柳に対し、藍晶は「心配しなくても、こんないたいけな子を連れて朝帰りなんてしないってば」と苦笑いをして見せた。

藍晶に連れられてやってきた店は、意外なことに先日会ったような、派手な姿の娘がいる店ではなかった。座敷――といっても、座卓を一つと、床の間がある程度の簡易な個室のある、酒を嗜む酒場だ。

「ふうん。で、俺に訊きに来たってことか」

手酌で自分の盃に酒を注ぎながら、藍晶は常陸の話を聞いている。
まさか日柳に聞こえるところで切り出すわけにもいかないのだから、先ほどの対応は正直ありがたかった。けれど。

「……藍兄、さっきの『態と』だろ」
「さっきのって?」
「ナギ君を誘ったこと。あの状況で誘われたら、ナギ君が付いてくるって言うわけないの、わかりきってて言ってたよね」
「はは、流石にあれは気づいちゃった? わかりやすすぎたか」
「――当のナギ君がどうかまでは知らないけど」

常陸がそこまで言ったところで、藍晶はなるほど、と自分の盃を傾ける。

「じゃ、特別に教えてあげようか。常陸くんを呼ぶときに、他の誰かじゃなくてイツ花ちゃんに呼びに行かせただろ? あれも含めて、わざとだよ」

藍晶は当主に就任してからも、間に人を立たせて一族の誰かを当主の間に呼ぶことがまず無かった。面倒なのか、自分から声をかけることがほとんどなのだ。
だから、藍晶がわざわざイツ花を通じて、それも私室ではなく当主の間に呼び出したということはなんらか当主として言い含めるほどの用があるということ。
常陸が当主に呼び出しを受けた――そんな状況になれば、仲の良い日柳は内心悪いと思ってはいても、こっそり聞き耳を立てようかな、ぐらいはするだろう。

常陸の前に置かれた盃にまだ何も注がれていないことに気が付いたのか、藍晶は先ほど自分の盃に注いだのは別の徳利を持ち、常陸の盃に傾ける。

「まぁ、常陸くんが俺とナギ君の仲違い? を気に病んでたってのは――心配かけて悪かったなって、反省はしてるよ」
「藍兄、ナギくんに嫌われてるって自覚あったんだ」
「んー……自覚っていうか」

コトリ、と徳利を卓上に戻し、藍晶は自分の頤を撫でる。

「あの子、良くも悪くも『綺麗』だからね」
「……はぁ?!」

いったい何を言っているのかと、思わず声を上げた常陸に「違うよ」と藍晶は苦笑する。

「――言い方を変えようか。『純粋』だからね、ナギくん」
「ああ、そういうこと。まぁ確かに思ってることポンポン口に出しちゃうし、頭に血が上りやすいのは俺から見てもわかるけど」
「そ。こないだのお姉さんも言ってたでしょ。ああいう子は裏通りの方なんかに近づいたら――」

そこで言葉を区切った藍晶は、盃に移った自分の顔を見つめている。

「はっきり言って、危ない。だから俺とは、距離を置いてくれた方が良いんだよ」
「じゃ、藍兄が危ない場所に行かなけりゃ良いだけの話じゃないか」

付いて来られても困ると告げた藍晶に、なら最初から行かなければ良いと常陸は返す。

「それができれば苦労はしないさ」
(――あれ。藍兄って、こんな笑い方もするんだ……)

酒をあおる前に見せた表情は、当主の顔とも、花街の若様の表情とも違っていて。

「藍兄……もしかして、花街へ行くのって何か別の理由があるんだ?」
「はは、常陸くん、そんな直球で聞いちゃダメだよ」

危なく酒を吹くとこだったよと快活に笑いながら、藍晶は手に持った盃を降ろした。

「うん、ナギくんよりはマシではあるけど。――常陸くんも、もうちょっと腹芸ってモンを身に着けた方が良いね」

そんな訊き方じゃ、教えてもらえるはずの情報も手に入れることなどできないと、藍晶は言う。

「仕方ないな、今回だけだぜ? 詳しくは言えないけど、俺にとって『遊び好きで頭の軽い女好きな若様』の顔って結構役に立ってるワケ。まぁ、心配かけたのは悪かったって思ってるから、流石に背後から連弾打たれたりしない程度には気を付けるけどさ。常陸くんも、俺とナギくんの間を必要以上に取り持ったりしなくていいから」

「……わかったよ。けど俺も、見ててはらはらするのは御免だから」

それだけ言って、常陸は自分の盃に注がれた酒を一気に飲み干す。
藍晶が選んでくれた銘柄は、初心者が口にするのに向いたものなのか、それほど酒精の香りがきつくはなく、かすかに果実にも似た甘味があって、するりと喉に落ちていった。

「こら。あんまぐいぐい飲んだら回るの早くなるだろ」

徳利の残りは、藍晶に取り上げられた。

常陸を連れていたため、その日の帰宅は藍晶にしては珍しく、日付をまたぐことは無かったわけだが、帰宅した二人を迎えた日柳はやはり、少しだけ機嫌が悪そうだった。

************

酒の席で言葉を交わしたことが、日柳と藍晶にとって良い方向に向かったのか、悪い方向に向かったのかは、常陸にはわからない。

けれど、初夏を境にしたあたりだろうか。
藍晶が日柳の頭を撫でる悪癖を改めたのは、彼なりに思うところがあったのだろう。
日柳の態度はあまり変わっていないようには見えるが、討伐に出れば出たで協力して鬼退治をしているし、日柳が藍晶に弓を向けることもなければ、傷を負えばちゃんと回復の術や薬を渡したりしている姿を見ている。
ただし、日柳の眉間には例によってくっきりと皺が刻まれ、嫌みの一言二言添えられるのが日常茶飯事だったが。

そうして、月日は流れ――
藍晶は出かけることがほぼなくなり、臥せっていることの方が多くなった。
次期当主を時雨に、と指名し、居室は当主の間から、かつて私室にしていた常盤の隣室に移していた。
ある朝、いつものように兄の隣室に向かった常盤が、障子の外から声をかけ、返答がないのを不審に思い襖を開けると、布団の中の藍晶は穏やかな顔つきで息を引き取っていた。
大切にしていた文箱の上に、一人一人に向けられた文が用意されているところが、似合わないのか、「らしい」のか……常陸にはよくわからなかった。
呼び集められて、各自に向けた文を渡されたあと、新当主となった時雨は自分あての文をそっと懐にしまうと涙を手の甲で乱雑に拭い、イツ花を呼んだ。

「常盤さんは、らんしょーさまについててあげて。ボクとイツ花ちゃんで、おしたくするから――ナギ兄ちゃん?」

自分あての文を握りしめ、呆然と立ち尽くしていた日柳だったが、藍晶を柩に収めたところで何を思ったか、庭に向けて走り去る。

「当主様と常盤君は、藍兄をお願い――俺が見てくるよ」

きっと日柳は、時雨と常盤には今の顔を見られたくないはずだ。
常陸の位置からは、すれ違うときにキラキラと落ちる雫が見えた。

(藍兄……『嫌われてるくらいで、ちょうど良い』なんて――思いっきり、失敗してるじゃないか)

庭に出て視界に入るのは目に痛いくらいの鮮やかな青と、空に溶けることができずに、庭の片隅にとどまる水浅葱。
日柳の足元に、ぽたぽたと水滴が落ちて、乾いた地面に染みを作っている。

空を見上げる日柳にだって、自分の頬を濡らすのが雨ではないと、本当はきっとわかっているのだ。

<了>

2020.09.21

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