「透。気ィついとるかもしれへんけどな。お前のホンマのお父ちゃんとお母ちゃんは別におんねん。
ワシが昔世話になったお侍さんでな。大江山で亡くならはった、源太さんや。今日、神さんとっから迎えがくるから、詳しいことはそっちで聞きや」
「……は? 何やそれ」
自分でも間抜けな答えだと思う。
鏡を見ていたわけではないが、きっとこのときの俺はさぞ間の抜けた表情をしていたことだろう。
俺には母親が居ない。
いや、居なかった……と言う方が正しい。つい先日、親父は嫁取りが決まったのだから。
俺だけでなく、朱点童子の襲撃で荒れ放題の京の街で、二親揃って健在な子供の方が珍しい。
商家に奉公に来た父がいるお陰で、俺は大江山の鬼の襲撃後冬を越せた『幸運な餓鬼』の中に入るわけだ。
そして、小さいながらも暖簾分けを許された父――今、俺の目の前に座っている、肌の浅黒い短髪の男だ――息子の俺が言うのもなんだが、とても俺のような大きな子供が居る年齢には見えない――の言葉に、俺は動揺すると同時に(ああ、やっぱり)とどこか納得して居たのもまた、事実なのだった。
顔立ちがどう――という訳ではない。
何時だったか、寺子屋で隣に座っていたクソガキと喧嘩して以来、俺は家の外に出るときはずっと、親父が買ってきてくれた、破璃の眼鏡をかけるようにしている。
別段、視力に問題があるわけではない。
問題があるのは――瞳の色だ。
夕暮れの赤よりも、もっと赤い――不吉さを思わせる、血のように鮮やかな真紅。
こんな瞳の色の人間、都のどこを探したっていやしない。
都を襲った『鬼』が冠するのと同じ「朱」。
瀬戸内の『鬼が島』から、はるばる海を渡って大阪まで奉公に出てきた親父は、瞳の色がどうだとか、そんな些細な事を気にする人ではない。
ただ――寺子屋から帰ってきたときの俺は、酷く頬を腫らして、着物もあちこち破れていた。
その有様を見て、揉め事のもとになるならば……と気を遣って、「瞳の色を隠すことができるように」と、職人に頼んで誂えてくれた一点ものを贈ってくれたのだ。
眼鏡をくれてから、1ヶ月ぐらいの間、親父は晩酌をしていなかった。だから俺も、寺子屋で喧嘩を吹っかけられても相手にしなくなった。
もっとも、眼鏡をかけていると、俺の瞳は真紅ではなく……明るい光の元では鳶色、室内だと焦茶ぐらいまで落ち着いた色合いに見える。
だからなのか、瞳の色をからかわれることはほぼ、無くなっていた。
大店に奉公に出て、読み書き算盤を習う人間の中には、俺のように眼鏡をかけている者も珍しくない。
だから、俺もこのまま――大きくなったら親父の跡を継ぐのだと、そう……思っていた。
「親父が……俺の、ホンマのお父ちゃんや無い言うんは、気ィついとったよ。
だって、俺のこの瞳。こんな色の瞳をした人間、他にどこ探してもいてへんやんか。――けど、神さんがどうとか、大江山がどうとか急に言われても、ワケわからんわ」
「すまん、透。――お前が、刀を持てる位の大きさになるまでは、普通の子として暮らさせて欲しい……これが、お前のホンマのお母ちゃんの願いでな」
「ホンマの、お母ちゃん……?」
「許してくれ。源太はんと、お輪はんのおふたりが、生まれたばかりのお前を俺に預けて、大江山に登らはった日のことは――昨日のことみたいに覚えとる。
粉雪の舞う日でな。寒いけん、風邪を引いたら大事やと思って、火鉢を取りに行こうとほんの少し目を離した隙に……お前は鬼に攫われてしもたんや」
ずきり、と鈍い痛みとともに、俺の脳裏に朧な映像が浮かび上がる。
粉雪の舞う中、雪深い山道をひたすら進む一組の男女。
大猿の姿をした鬼を倒し、二人が辿り着いたのは、鬼の首魁・朱点童子の寝所。
「――透、大丈夫か?!」
「大丈夫や。ちょっと、眩暈がしただけやから……それより」
さっき見えた映像が、赤子の頃の俺の記憶だと言うのなら。
あの、赤鬼の『おまじない』を受けた赤子こそが、俺で。
「――そっか。誰かがやらな、アカンねんな。
俺が『嫌や』言うたら、親父もオカンも、友達もみんな。朱点に襲われて死んでまうんやな。――せやったら、しゃーないな、やったるわ」
ははっと、笑いながら告げる俺に、心底辛そうな表情で、親父は頭を下げた。
「――透。俺はな、ホンマはお前に、鬼退治なんかより……この店継いで欲しいって、思ってたんや。
言わな、いつかホンマの事を言わなアカンって……思っとったんじゃがの」
言えなかった――と、噛み締める様に吐き出す親父に、俺はただ「頭を上げてくれ」としか言えない。
「なあ親父。ホンマのお父ちゃんがその――源太さんやったとしても。俺にとっての親父はひとりしかおらん。だから、そんな風に謝らんとってや」
かくして俺――運命の一族の始祖・高羽透は、地上での平和な生活に別れを告げた。
悔いは無い。
魂の奥津城で出会った、水浅葱の髪に金の瞳を持つ剣士――あの人に出来たことが、俺に出来なくてどうする。
(神さんからの迎えって、どんなんやねん!)
人間は、神の世界に入れない。神もまた、人の世界に入れない。
俺が直接見たわけではないが、何年も前、お店に奉公に着たばかりの親父は、大江山に向けて雲の上を進む、神の行列を見たことがあると話して聞かせてくれたことがある。
何十という神が、大江山の鬼を倒す為に進軍したのだと。
ただ――天界最高位の女神・太照天をもってしても、倒すことが叶わなかった強敵――それが、鬼を束ねる『朱点童子』。
それ以来、何人もの猛者が大江山に挑むが、朱点の元まで辿り着けたものは居なかった。
――俺の、本当の両親だという、源太・お輪を除いて。
親父に言われたとおり、俺は一軒の武家屋敷の前に来ていた。
武家屋敷と言っても、この荒れ放題の都の中にあるのだ。なんとか人が住める程度の、いわゆる「あばら屋」である。
いちおう自分の生家らしいので、「ごめんください」もどうかと声を掛けるのを躊躇っていると、いきなり玄関の前の空間が渦を巻くようにぐにゃりと揺れた。
歪みの向こうから聴こえるのは……どこかで聞いたような覚えの有る、よく通る――少年の、不思議な響きを持った声。
「――来たな。君が、この世界の『運命の一族の始祖』か。さあ、私の手をとれ。女神の元に、案内しよう」
差し出された手を取ると、俺は何も無い、天も地もわからない、不思議な空間に取り込まれていた。
目の前に立つ、藍と水の戦装束を纏った人物を見て「あ!」と、無意識のうちに口から声が漏れていた。
「――あんた、誰や? いや、どっかで会うたような……アカン、思い出されへん」
腰まで届く、長い水浅葱の髪。ぱっちりとした大きな目。しかし何よりも印象的なのは、琥珀を思わせる金色の瞳。
こんな色合いの瞳を持った人間が、俺の他にもいたなんて。
声だけ聞いていたときは、てっきり男かと思った――が、こうして顔を見ると目の前の人物が女性であると、はっきりと判る。
首の後ろで束ねただけの飾り気の無い髪型は、戦装束の鎧とあいまって、凛とした彼女の雰囲気にとてもよく似合っていた。
(こんな目立つ相手、いっぺん会うてたら絶対忘れるはず、無いんやけどなぁ。……つーか、銀髪金目の女侍なんて、絶対耳に入るはずや)
「此処は、『魂の奥津城』――天と地の狭間にある、神でも人でもない者が通ることの出来る、特殊な『場』だ。これから、女神に会って、君の事情を説明してもらうわけだが」
金目の女は、俺の疑問に応えるかのように真正面から俺の視線を受け止めると、何故か一瞬――言いよどむように、言葉を切った。
「今なら、引き返すことも出来る。――君ではなく、他の魂に始祖の役割を任せることもできるのだぞ?」
どこで会ったのか、全く思い出せないが……どうやら、俺の勘違いではないらしい。この女は、確かに俺を――知っている。
「いや、俺がやる」
「そうか――君と、君の一族に祝福あれ」
手を出せという言葉に従って、握手でもするのかと差し出すと、「違う、こうだ」と拳を握らされた。
コツン――俺の拳の上に軽く一回。
コツン――拳の下から、軽く一回。
コツン――拳と拳を正面から、軽く合わせる。
掌を開いて上に――ぱあんと、手と手を打ち鳴らす。
そして俺は、こことは別の運命を歩む『一族の始祖』に別れを告げた。